2代目JRA理事長有馬頼寧(ありまよりやす)氏は、中山競馬場の
建替え、そして、中山グランプリを創設。新装成った中山スタンドで、
第1回中山グランプリを見守り、その17日後、急性肺炎で亡くなる。
在職期間はわずか1年9ヶ月であった。そして、彼の功績をたたえ、
中山グランプリは、有馬記念と命名された。
その有馬氏、戦前、貴族院議員で、腐敗した政党政治の改革を
目指し大政翼賛会創設、事務総長に就任。が、暫くして、軍部が
介入し始めると、すぐに辞任。大政翼賛会が戦争賛成、世論を
誘導し始める。責任はないと言うより、逆に、温厚なリベラルであり、
軍部にたいし批判的であり、戦争反対であった。さらに、軍部に
にらまれていたにもかかわらず、戦後、戦犯として、巣鴨プリズン
に収監される。しかし、その後、復権。JAR2代目理事長に就任。
すぐにぼろぼろの中山競馬場を建て直すべく、政治力を思う存分
発揮し、有馬特例法と呼ばれる法律を議会で成立させる。これは、
臨時競馬を開催、国に納めるお金を中山競馬場の新スタンド建て
直し費用に当てるという法律である。それを成功させる。一方、
野球好きであった彼は出走レースの馬を人気投票で選べないかと
いう案を提案。企画が実現することなる。理事の中からハンデ戦に
すべきと言う意見も出たが、有馬氏が、その意見を一掃、定量戦
となる。まさに、そのレースは、その年の実力日本一決定戦の性格
を帯びることになるのである。そして、彼は、大きな業績を残し、
この世を去るのである。自らの名、をありまーたよりねいと称した
有馬氏の競馬に関する業績は偉大なものであった。
有馬記念は世界最大のレースである。売り上げレコードは1996年
の875億円、現在約500億円である。ペリエ騎手が、日本で始めて
短期免許を取った年、彼はこのレースを見て、体中がゾクゾクした
と言う。そして、このレースに乗りたいと決意をしたそうである。
今年の有馬記念、第1回には負けるかもしれないが、おそらく近年
まれに見る豪華な出走馬である。
私は今年の有馬記念を、中山競馬場のゴンドラ席で、ワインを
飲みながら、楽しむつもりでいる。すでに準備を始めている。
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